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春の野球のこと・・(1)

私の著作『テレビジョンは状況である』(岩波書店刊)に書かなかった私の個人的な「変化球の状況」を書いてみる。球春の物語である。
私は毎年2月1日から決まったように沖縄にいた。宜野湾。球場を見下ろすホテルに泊まり、
ベランダから横浜ベイスターズのキャンプ場を見下ろす。

20150225

DeNAが球団を保有する前まで私は横浜ベイスターズの後援会副会長を務めていた。
「どうして重延さんがプロ野球の球団の後援会副会長に?」とよく聞かれるが、私にとって全く不自然な任務ではない。テレビマンユニオン会長の名刺より横浜ベイスターズの名刺を大事にしていた。
私は小学校時代からの野球少年で、ピッチャー以外のポジションをずっと断わりつづけたわがままな子供だった。そのころは当然のように巨人ファンで、それは川上哲治選手と青田昇選手がスーパースターの時代だった。川上はアベレージヒッターで、青田はホームランバッターだった。川上は石のようにしっかりとバッターボックスに立ち、左右に打ち分けた。青田はじゃじゃ馬とも呼ばれ、強引なバッティングでレフトのポールを巻き込むホームランを打った。札幌円山球場で少年は青田の豪快なスイングに憧れた。1953年に青田は巨人を去った。私も青田と共に巨人ファンを辞め、彼が移籍した大洋ホエールズと松竹ロビンスの合併チーム大洋松竹ロビンス(通称洋松ロビンス)のファンになった。

1960年、私が東京の大学に入った時は三原脩監督が秋山登、土井淳のバッテリーを擁する前年最下位の弱小球団大洋ホエールズを奇跡の優勝に導いた。日本シリーズはすべて1点差で4連勝した。授業をさぼり、川崎球場での優勝胴上げを学生会館のテレビでじっと見つめていた。そんな私がなぜ横浜ベイスターズの後援会副会長になれたのか?

(つづく・・)