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私の書棚 その1

私の会長プロモート室にある書棚を1匹のドーベルマンが見守ってくれている。実物大のイタリア製ぬいぐるみである。名前をソラリスという。スタニスワフ・レムのSF小説『ソラリス』から取った名前である。

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ことし8月21日の日本經濟新聞朝刊の「リーダ―の本棚」欄に、私の座右の書1冊と愛読書5冊が紹介された。編集の中野稔氏には私のばらばらな好奇心を巧みに組み込んだ読書紹介にしていただいた。紹介されていた6冊は、座右の書としての『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳、東京創元社)と愛読書5冊である。『嘔吐』(ジャン=ポール・サルトル著、白井浩司訳、人文書院)。それに『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク著、伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫)、『侍』(遠藤周作著、新潮社)。『窓ぎわのトットちゃん』(講談社)、それにテレビマンユニオン創立の契機となったTBSの先輩たちによる『お前はただの現在にすぎない』(萩元晴彦、村木良彦、今野勉著、田端書店)の5冊である。この人生の書6冊を選ぶのは、思ったより難しい作業で、自分の読書史をすべてたどりなおすことになった。すでに自著『テレビジョンは状況である』(岩波書店)には私と組織テレビマンユニオンとの軌跡を書いていたが、影響を受けた書籍に絞って歴史を振り返ると、また別の自分史が見えてくる。その時思っていた知性への熱意や、著者への憧憬の念が見えかくれする。結局自分の愛読書というものはいつも時代の気持ちに左右されていて、案外一貫していないものだということがよくわかる。学びたい知識が蛇行しながら進んできた人生の道行のようである。それが人生というものなのかもしれない。その中でもこの6冊に入れなかった本にもそれぞれの別の強い想いがあり、このまま記憶から消してしまいたくないと思い、このブログに記しておくことにした。

時間は急に逆回転する。小学校の時に読んだ『講談社の世界名作全集』シリーズで『ああ無情』(レ・ミゼラブル)、『巖窟王(モンテ・クリスト伯)』、『宝島』、『鉄仮面』、『三銃士』、『乞食王子』、『ロビンソン漂流記』、『ガリバー旅行記』、『トム・ソーヤの冒険』、『ロビン・フッドの冒険』などは、学校を早く抜け出して家に飛んで帰って読んでいた本である。梁川剛一の装幀が美しかった。

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梁川氏が私の小学2年生まで同じ札幌に住んでいたことを知り、どこかの道ですれ違っていたに違いないと思うと懐かしさがこみ上げてくる。人生とはそういう奇遇に満ち溢れている。
山川惣治の『少年王者』には映画に繋がるファンタジーの世界に浸った。

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中学、高校時代は日本文学を読みつくすような乱読だった。なぜか当時同輩たちに人気のあった太宰治らの私小説的な小説には文学上の尊敬はしたが私自身は心惹かれなかった。高校になって読んだヴィクトール・ユーゴーの『ああ無情(レ・ミゼラブル)』やアレクサンドル・デュマの『三銃士』、『巌窟王(モンテ・クリスト伯)』が小学生だった時に読んだ物語とはまったく異なる政治性、社会性、そして異性との話にも富む劇的な小説だったことに驚愕する。大人の世界を感じはじめる。北海道から新天地東京に来た大学時代からは西欧の小説、評論に目を向けるようになる。大河小説とも言えるトルストイの『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、ドストエフスキーの『罪と罰』、『カラマーゾフ兄弟』など。今思えばこの青年時代に本当にその価値をわかったのだろうかと思うが、読むことへの強いエネルギーを持っていた時代と言える。だが、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』だけはいまだに手につかないままである。
(次号に続く)