5月にパリから30キロメートルほどのエソンヌ県ヴィリエ・ル・バクルにある画家藤田嗣治の終の棲家を訪れた。藤田は晩年この家を買い、アトリエをつくり、ランスの礼拝所のためのフレスコ画の構想を練った。近所の子供たちと時間を過ごし、庭の花にブリキの如雨露で水を与える毎日だった。この静かな村に3度目の訪問をする。
私は藤田嗣治のイメージが、ただ異端の扮装をする画家として記憶されていることに違和感を覚える。あのおかっぱ頭は彼が貧乏のあまりに自分で髪の毛をカットし、顔にふりかかる伸びた髪に窓を開けるようにしただけのことから始まった。そのおかっぱ頭がパリでは藤田独特の髪型として評判になり、それを自分の個性として定着させたとも言える。しかし、彼自身は実は若い時からダンディなファッションの似合う、粋な伊達男だったはずだ。事実彼が1929年からの大恐慌のあとパリを去り、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリヴィア、キューバ、メキシコなどへの中南米へ旅行した時の写真は、洒落た扮装で、当時の最高級のメンズファッションを着こなしている。モンパルナスの人気モデルだった美しいマドレーヌを連れ、ファッショナブルなカップルとしてたくさんの写真を残している。藤田は中南米で民俗的な面や土器や人形を買い集め、それがエソンヌ県の家に今も残っている。5月に今は一般公開され、藤田の研究機関になっているエソンヌ県の家を訪れたとき、私は思いがけずに藤田自身がライカで撮影したたくさんの写真を館長の好意で見せてもらえた。驚くべきことに中南米を旅して新しい画題を探し求める画家の姿がそのまま写真に残されていた。
秋田市の平野政吉美術館にはその中南米の旅で出逢った原色に近い新しい色彩があふれる作品が数多く展示されている。私はその中の1点「カーナバルの後」に注目する。夜を徹した祭りの終わるころ妖艶な女性を抱きしめながら疲れはて紙吹雪に埋もれている男の靴に私は目をとめる。白と黒のコンビネーションの革靴。それは船で旅行中の藤田の写真にも残っている靴だった。藤田のお気に入りの靴に違いない。ある日、このエソンヌ県の家のことを書いている藤田嗣治研究家林洋子さんの本を読んでいたとき、そこにまたコンビネーションの靴の写真が掲載されていた。藤田はよほどこのコンビ模様の靴のデザインが好きだったらしい。私はその靴を見たくてこの家をまた訪ねたのである。靴はたしかに2階のベッドの横の棚に置かれていた。ひっくり返して裏底を見るとWESTONという人気の有名ブランドの靴だった。靴と私の小さな出逢いにすぎないが、そんなことで意外にその画家の深奥に潜む心理や嗜好がわかることがある。
3階のアトリエには、中南米に行った時の旅行鞄も置いてあった。そこに貼られている各国の旅のラベルに、フランスでも、日本にもない新しい世界の時間と空間を持とうとした画家藤田の強い意志が見える。旅はいつも現在という時間、環境からの突破口になる。未来がふんだんに存在する。
私は毎年、初夏はテレビマンユニオンという組織から離れて旅する喜びを求めてきた。ヨーロッパに咲く初夏の草花には、それがたとえ雑草でも新鮮な生を感じる異郷の美しい主張がある。その空気で胸を満たすと、新しい想像力がまた漲ってくる。そのころの東京はいつも雨が降っていた。