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アウトローだった新宿夢物語

「テレビジョンは状況である~劇的テレビマンユニオン史」(岩波書店)
映像バージョン② 1973年

 

今から40年前の1973年5月2日、私は31歳。テレビジョン以外の創造を夢見た若い私がプロデュースした女優梶芽衣子との『新宿アウトロウショー』。当時もっとも若者が動いていたドラマティックな町新宿は、歓声を上げてそれを迎えた。東京厚生年金会館大ホールは揺れた。

 

ブログ11月2013②画像

 

このチラシのデザインをしてくれたのは
26歳のときの花輪和一さん。
『月間漫画ガロ』でデビューし、
私がその感性を素敵な才能と思っていた。

私より6歳も若い作家だった。

彼はのちに天才絵師と言われた。

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以下、著作『テレビジョンは状況である』から~

 

梶芽衣子はシンボリックなスーパーヒロインだった。映画『さそり』シリーズの主演女優として、東映のトップスターになり、低音の『怨み節』で、オリコン第一位を独走していた。上目使いに人を射すように睨む。その時代のヒロインを、私は舞台に誘った。初対面の私の願いに対し、梶芽衣子の受諾も一瞬だった。私をまっすぐ正視し、答えた。「やります」。ひとつだけ約束があった。この舞台は二度と繰り返さない。その日で消えていく。この約束を私は生涯守っている。

 その日は強い雨が降っていた。雨の中、新宿から列をなして客が殺到した。客席はすべて埋まり、通路にも総立ちになった。後ろの扉が開けられ、ロビーにも人があふれた。開演。幕が上がる。10台のバイクが、客席にむけてライトをつけたまま並んでいる。その逆光の中、客席後部から突然梶芽衣子が颯爽と登場し、舞台中央に立つ。悲鳴のような叫び声が観客から上がる。梶芽衣子がいきなり『怨み節』を歌う。「花よ きれいと おだてられ 咲いてみせれば すぐ散らされる・・」。明らかに、新宿が揺れた。私たちはその真ん中にいた。三上寛がギター一本で、叫ぶ、ジョー・山中が高音のロックを歌う。大駱駝艦が緩やかに、そして狂おしく踊る。第二幕が開いたとき、舞台中央の檻の中にライオンがいた。その前でマイクを持った梶芽衣子がひとり歌う。それを見つめるライオンが吼える。私の独創は、テレビジョンを逸脱していた。

 

私のアウトサイダー的な自由な放浪のはじまりである。この華麗なるイベントはテレビ界ではあまり知られていない。