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春の野球のこと・・(2)

それ以来、大洋ホエールズの優勝はしばらくなくなり、万年弱小球団の一ファンとして私は沈黙を重ねていた。しかしどんなに弱くても大洋ホエールズのファンを続けてきたのには隠れた理由があった。私の敬愛する白洲次郎がこの球団に関わっていたというあまり知られていない秘話があったからである。白州次郎は大洋漁業の中部謙吉氏と親交があり、戦後のGHQ対応が終わってから彼は大洋漁業の社外取締役を務め、英国など海外の取引に協力していた。彼はもともとは巨人ファンだったのだが、のちに大洋ホエールズのファンにかわった。その野球ファンとしての経歴が私と同じ道だったのがうれしかった。

白洲次郎は彼の特任秘書だった久野修慈氏を大洋の球団社長に起用した。谷繁現中日監督が高卒で大洋に入団した時の球団社長が久野氏である。白洲次郎は毎日、大洋の試合結果を気にしていたという。それを知ってから私は川崎球場という狭い球場のわが弱小球団が少し文化的球団に見え、それを密かに誇りにしていたのである。その後も弱小球団であり続けた大洋ホエールズは本拠地を横浜に移した。そして1998年、権藤博監督が率いる横浜ベイスターズは佐々木主浩投手、鈴木尚典選手などを擁し、甲子園球場での阪神戦で34年ぶりの優勝を決めた。その夜たまたま京都にいた私は電車で甲子園球場に駆けつけ、レフトのポールに近い安い席ではるか遠くから佐々木と谷繁のバッテリーが抱き合う優勝の瞬間を眺めた。帰りの満員の阪神電車で隣に座っていた老夫婦が「私たちは東京から来た横浜ファンです、生きているうちにこのチームの優勝を見られて夢みたいです」と私に打ち明けたとき、それを聞いた阪神ファンの客がみんなで万歳を繰り返し叫んでくれた状景は忘れられない。

その年の日本シリーズも4勝2敗で西武を破り日本一になる。私の数少ない誇りは今やこの弱小球団が12球団中で唯一日本シリーズでは負け知らずだということである。通算8勝2敗勝率8割であると威張っている。

そんな些細なことを自慢する私を横浜ベイスターズの後援会副会長に推薦したのが2002年に横浜ベイスターズの親会社になったTBSの砂原幸雄元会長である。私はTBS演出一部で彼が演出するドラマのアシスタントディレクターだった。会長室で彼との雑談中、私が横浜ベイスターズの所属67選手の名前を全員そらんじていることを知り、翌日私を後援会の副会長に推した。会長は横浜商工会議所の会頭だった。それ以来毎年2月1日のキャンプインを宜野湾で過ごすことになる。

2008年元電通の加地隆雄氏が球団社長に就任した。彼はファンをとても大切にする社長だった。横浜球場の主催ゲームでは必ず試合開始前にライトスタンドに行き、ファンに来場を感謝し、頭を下げた。その姿を覚えているファンも多く、宜野湾で私と夕食を共にしていた彼の周りにサインを願う生粋の横浜スタジアムライトスタンドのファンが集まった。そんな人格を持つ球団会長だった。

加地さんからはいつもその年の決意を示す年賀状が届いていたが今年は来なかった。間もなく奥さんから1月13日付の彼の訃報が届いた。彼が病に付していたところに私の賀状は届いていたと思う。同じ熱狂を持った同志が消えていくことに無念な思いを抱きながら、この弱小球団ファンの私はまたひそかに今年の日本シリーズの10月24日からのスケジュールに線を引いた。いつ秘書が今年はもうこの線を消していいですかと言ってこないかびくびくしている。