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私の書棚 その4

テレビマンユニオンに参加し、はじめて自分の演出が実現した。『テレビジョッキー』、『ナイトUP』、
『私がつくった番組』などの番組が私のテレビジョンの舞台だった。『私がつくった番組』では、吉永小百合、
梶芽衣子、淡谷のり子、三宅一生、山本寛斎らの当時私が敬愛したスターたちの30分番組を演出した。
自由な演出法で番組を制作した。

その後私はアメリカに旅立つ。一人だけでアメリカに派遣されるという1ドル360円時代の冒険だった。
1970年から1980年にかけてのアメリカの華麗な革新の時代をニューヨークで同時間に体験する幸福な時の
刻み方だった。当時アメリカではベトナム戦争から受けた精神的打撃から立ち上がろうとする若いジェネ
レーションの新しいムーブメントが始まっていた。ヒッピーへの流れるような潮流と、ブラックパワーの強い
抵抗だった。いずれも自由を求める姿であった。そんなニューヨークの1970年代を満喫した。そのとき
出逢った本がアンジェラ・デイヴィスの『もし奴らが朝やって来たら』だった。美しい黒人の女性アンジェラは
マルコムXが射殺された時、その頭を膝に抱えたマリアのような女性だった。黒い天使とも呼ばれ、時代の
変革の闘志となった。
もし奴らが朝にきたら

もし奴らが朝に来たら

 

しかしアンジェラはその自由を主張する活動に対して強い圧力をかけられ、白人男性の射殺に関わったという嫌疑で投獄されていた。その拘束に対し、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーとキース・ジャレットは『黒い天使 Sweet Black Angel』という曲で彼女を支持する曲を書く。彼女はほんとうに素敵な天使だ、と歌い。奴隷なんかじゃない、と曲の中で主張する。あの素敵な奴隷を自由にしろ!彼女に自由を!と叫ぶ。そしてジョン・レノンとヨーコ・オノも『アンジェラ Angel』という曲で牢獄のアンジェラに、地球がまわっている音が聞こえるか?と声をかけ、世界中が君のことを見守っている、きっと君はもうすぐ僕たちのところに戻ってこられるよと勇気づける。そんな声に熱く共感する20代だった。

1976年のアメリカ200年祭のときは伊丹十三と選ばれた参加を希望した20代から60代の7人とともにアメリカをキャンピングカーで横断し、フィラデルフィアの祝典に出席し、「自由の鐘」の音を聞くというドキュメンタリーをプロデュースする。それが翌年『アメリカ横断ウルトラクイズ』の制作に発展し、私は第1回のプロデューサーを務めるという体験をする。自由の女神を最後の決勝の地に決めたのは、アメリカで自由のあり方を学んだ私の発想である。ウルトラクイズはのちに爆発的視聴率をとる番組に成長していった。

アメリカから日本へ帰ると吉本隆明の『情況への発言』を読んだ。その頃はグリニッジヴィレッジで体感した自由への道を日本でも求める若者だったが、「自由な意志」というものはあっても「関係の絶対性」の前でそれがどう存在できるのかという哲学を突きつけられる。

 

情況への発言

情況への発言

 

日本ではあらためて日本文学に新鮮な味わいを感じた。日本の美学を学びなおす。いち早く立原正秋を読む。『剣ヶ崎』、『薪能』、『漆の花』、『白い罌粟』のドラマ化を夢見る。鎌倉山に住んでいた立原氏を訪ね、親交を得る。その縁はテレビ嫌いだった氏の手土産に彼が密かに愛していた日本酒「住吉」を持っていったことからはじまった。鎌倉で冷たく出演を断られたあと、東京に戻るとご本人から電話がかかってきて、「手土産が気に入った」と出演を快諾してくれた。まだ20代だった年若い私が氏の著作の初版本を持っていることに感動してくれた。鎌倉に伺うたびに日本料理の食べ方を丁寧に教えてくれた。それ以来教えに従ってわさびは醤油に溶かすことなく、刺身の上に小さくのせて食べるようになった。

遠藤周作の『沈黙』、『侍』。そのテレビ化を直接遠藤周作氏に手紙で願い、脚本さえ良ければという手紙を受け取る。当時は私に実現できる能力はなく、そのままになった。だが、手紙は私にとって貴重な親書に思え、今も大切に保管している。

 侍

私の青春はすでに30代の半ばを迎えようとしていた。国家や組織の絶対性と自由な個の関係はそのままなにも解決せずに30代の課題として残り、私の書棚はそれを模索する本で埋まっていく。

(次号に続く)