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私の書棚 その6

私の40代の人生は3つの主題を軸に大きく展開した。
私は樺太生まれで、そこで終戦を迎え、ソ連軍に統治され、やがて引き揚げという形で故郷豊原(ユジノサハリンスク)を去った。その時の幼い記憶が甦ったのか、国境という主題が私の表現の主題になる。
中国と台湾の国共合作を世界で初めて音楽で実現するという企画で、台湾出身のヴァイオリニスト林昭亮と上海出身のピアニスト李堅を東京に招き、共演してもらう国際外交上ありえないコンサートを実現した。さらに、朝鮮半島を南北に分断するDMZの姿を描くドキュメンタリーを企画、韓国と北朝鮮の軍隊が南北から監視するDMZ(非武装地帯)が、実は動物、植物にとって人間の入れない最も幸せなZONEになっているという皮肉な環境番組を制作した。さらに戦前からのベルリン美術館が壁によって2つに分断された悲劇を、東西ドイツが統一される前に撮影し、テレビジョンによる美術館の東西統一を実現する企画を提案し、独立プロダクションとして初めてNHKにおける番組製作を実現した。この企画のきっかけとなったのは、岩波書店が東西に分断されていたベルリン美術館をまとめて出版した本に出会ったときである。

 

ベルリン美術館ドイツ版(東西)

ベルリン美術館ドイツ版(東西)

ベルリン美術館日本版(東西)

 ベルリン美術館日本版版(東西)

 

東ベルリンにあったペルガモン美術館・ヘレニズムの古代遺跡ペルガモン大祭壇に、西ベルリンのベルリン・フィル12人のチェリストを招いて演奏をしてもらう企画が私の頭に浮かんだ。このアイデアにベルリン・フィルのチェリストたちが喜んで参加した。チェリストたちが東に入れる特別の許可を得て、ついに東への入国が認められ、厳しいチェックポイントチャーリーの通関を通る。私は彼らを美術館で待ち受けていた。やがて彼らのバスが到着し、ペルガモン美術館に入ってくる。その時の彼らの顔を私は一生忘れることはないだろう。それは彼らにとっても初めてのペルガモン美術館だった。ペルガモンの巨大な神々と巨人のレリーフを見て廻り、そこでかれらは演奏する。ユリウス・クレンゲルの『讃歌』である。これは音楽による東西融合の劇的な瞬間だった。   

第2次世界大戦中、美術館の重要なコレクションをナチが岩塩坑や地下壕などに分散させて隠した。連合軍がベルリンに進出、収蔵品は隠された場所によって東西のベルリンそれぞれに分断された。ソ連軍占領地区は東ベルリン美術館のものになり、アメリカ、イギリスの占領軍が見つけた収蔵品は西ベルリン美術館のものになった。もちろん戦闘時に破壊されたもの、盗まれたもの、持ち去られたものも多い。それからおよそ40数年が経ち、東西ベルリン統一の機運が生まれる中、東と西のそれぞれが編集した東西ベルリン美術館の合本が出版されたのである。それが岩波書店で翻訳され、日本版も生まれた。私はその発想をテレビでも実現したいと考えたのである。

若い時の読書はその後の人生にいつかはよみがえる。
大学時代の実存主義への傾倒は、別の形でテレビ番組となった。友人同士だった実存主義哲学者ハイデッガーとヤスパースの文通をまとめた『ハイデッガー=ヤスパース往復書簡』。ナチスに傾いたハイデッガーと、ユダヤ系ドイツ人の妻を持つヤスパースとの強烈な断絶の姿が見えてくる。それは実存主義哲学者同士の戦時下における劇的な対決だった。
この往復書簡をベースに私はNHKで1時間2本のドキュメンタリーを演出した。

 

ハイデッカー・ヤスパース往復書簡など    ハイデッカー・ヤスパース往復書簡

ハイデッガー・ヤスパース往復書簡など

 

そのころハンナ・アーレントがハイデッガーのもとで哲学を学ぶ学生で、しかも恋人だったと知り、衝撃を
受ける。ハイデッカーはナチ党に入党していた。

そのハンナがのちにアメリカで自由主義の思想家になり、多くのユダヤ人をガス室に送ったアイヒマンを
「極悪人というより、悪に対して凡庸で、
思考が欠如している犯罪者である」と糾弾する。

 

こうして私はベルリンの虜になっていった。ひとり夜の街を歩くと、幻のように戦前の豪華なウンター・デン・リンデン通りが浮かびあがり、深夜の退廃的なショーのざわめきが聞こえてくるような気がする。そんな華やかな空気が今も残っているベルリンである。

(次号に続く)