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カチューシャかわいや、わかれのつらさ~

<2021年7月23日 記>

私の世代なら、「カチューシャの唄」の出だしの8小節くらいは軽く口ずさむことができる。〜カチューシャかわいや わかれのつらさ〜。この「カチューシャの唄」はトルストイの晩年の小説『復活』を舞台化して作られた劇中歌だった。島村抱月と相馬御風の作詞、中山晋平の作曲で、1914年(大正3年)に発表され、劇団芸術座の『復活』の舞台で松井須磨子が歌い、国中の愛唱歌になった。ロシアの若いネフリュードフ公爵が下女のカチューシャを軽はずみな誘いで弄んで捨てた。彼女は彼の子供を産んだあと、娼婦に身を落とし、ついには人を殺めたと誤審されたが、公爵はカチューシャへのかつての行為を恥じ、彼女を救い、それからは彼の総てをささげたというハッピーエンドとなる。日本で幾度も繰り返し映画化された人気作だった。だがカチューシャを演じた松井須磨子の運命はそのあと意外な展開をすることになる。

1918年春に、カンザスの米軍基地から始まったインフルエンザの感染は、第一次世界大戦で欧州に派遣されていた兵を経て、世界中に広まっていった。世界のおよそ三人に一人、5億人に感染し、4500万人もの死者を出した。それはスペイン風邪と呼ばれた。半年遅れで日本にも感染が広まり、人口のおよそ半分の2300万人に感染し、45万人が死亡した。人類とウイルスの第一次世界戦争だったとも言われる。「口覆布」と言われるマスクを着用した大正時代の日本人たちの写真が残る。そうした感染前の時代にトルストイの復活が1914年から日本で上演されていた。劇作家の島村抱月がトルストイ原作の『復活』を独自に翻案し、芸術座で上演、劇中歌「カチューシャの唄」も大ヒットし、主演の松井須磨子は一挙に人気女優になっていった。だが当時島村はその松井須磨子と不倫の関係にあり、その風聞で世の不評にさらされることになる。そしてスペイン風邪の到来。まず松井須磨子が感染し、それを看病していた島村に感染、島村は肺を病んで命を失うことになる。その死の悲しみに暮れた須磨子は、その二か月後、首を吊り、愛する島村のあとを追った。遺書には彼と同じところに共に葬ってほしいと書き残してあったという。

二人の命を奪ったスペイン風邪。それは第一次世界大戦の戦地にいた諸外国の軍隊から全世界に蔓延するパンデミックとなり、第一次大戦も停戦となる。そして日本の現在と同じような問題が起きることになる。オリンピックの開催である。1916年に予定されていたベルリンオリンピックは第一次世界大戦で中止されていた。オーストリア=ハンガリー二重帝国とそれを支援したドイツが引き起こした第一次世界大戦である。その当事者が敵国を招いてオリンピックを開催するわけにはいかなかった。しかし次の1920年のオリンピックは、スペイン風邪のパンデミックの真っ最中にもかかわらず、IOCクーベルタン会長の判断で実施されることとなる。また中止になればIOC自体も経済的に崩壊するという懸念もあってオリンピックは強行され、選ばれた開催都市がベルギーのアントワープだった。ベルギーは第一次世界大戦では中立国であったがドイツ軍に侵攻され、その占領下におかれていた。しかし感染は少なかったと言われる。大戦の終結を待たずに、史上最多という29カ国から2607選手が参加し、国王のアルベール一世が開会を宣言、初めて作られたという五輪の旗がはためき、これも初めて選手が宣誓をする「平和と復興」を謳う大会と言われた。しかしベルギー国民の関心は少なく、観客席はまばらだったという。ベルギー国民の意志を無視したオリンピックだったようである。まだ完成していなかった競技場も多く、スペイン風邪に対する対策も欠けていて、選手たちは不安を抱えての競技となったという。この大会ではフィンランド選手の活躍が目立ち、特に長距離ランナーのヌルミ選手が3種目で優勝し、世界の喝采を浴びた。日本からは15人の選手が参加し、テニスのシングルスで熊谷一弥、ダブルスで熊谷・柏尾組が銀メダルを獲得した。それは日本人初のオリンピックメダルだった。この時ばかりは日本も歓喜の声に包まれたという。このときのポスターを見ると開催期間がなぜか九月から翌年四月までと長期にわたっている。調べてみると、冬季の競技のフィギュアスケートとアイスホッケーもこの大会に含まれて実施されていたためとわかる。前例のないオリンピックで、8か月にわたる大会となった。それが100年前の不可解なオリンピックだった。

その時代の日本は竹下夢二が象徴する大正ロマン、モボ・モガの時代だった。そして日本が国際連盟に加入し、株価が暴落し、上野公園ではじめてメーデーが開催され、カール・マルクスの『資本論』が邦訳され、自由主義活動が盛んになった。そんな大正デモクラシーの時代でもあったが、実はパンデミックと深く重なる悲劇の時代だったことに気がつく。やがてスペイン風邪は、人々に抗体ができることで、その翌年の一九二一年に終息に向かった。しかし悲劇は、その100年後にまた繰り返されることになる。私はトルストイのこんな名言を今こそ、私の心の石碑に刻んでおきたいと思った。〜「逆境が人格を作る」・・・。

(重延 浩)