column

ニューヨークと東京の時差相対性理論・2011

<2011年9月10日 記>

飛行機に乗る。羽田国際空港からの深夜便は夜12時過ぎに出発するから、すぐ睡魔が襲う。かつては、機内で酒の杯を傾け、食を楽しみ、映画を見て、音楽を楽しんだ。しかし、今はそんな時間が、深夜便のために消えていく。ニューヨークへの真暗な機内で、ひとり眼が醒めて、イヤホーンから流れるアリアを聴きながら、そっと窓を開けて見ると、光沢のある緑色の曲線が波打つように乱舞しているのを見た。それは北極圏のオーロラで、それを機内から見下ろす宇宙的映像にひとり感動した。

日付変更線を越えて前日の午後の時間に戻る。時計の針を巻きもどす。時間の得をしたように思う。マンハッタンに入る。時差のため、その日を2度働くことになる。ニューヨーカーが足早に歩いている。時差には睡眠の時差と胃腸の消化の時差がある。胃腸の時差を早く修正しておかないと、海外の食生活は楽しくない。時差によりおいしい食事のタイミングを逃がすことになる。時間は人を待たない。ニューヨークは24時間都市である。地下鉄が走り続ける。東京はなぜ24時間都市でないのだろう。日本では最終電車をめがけて、早々とお店へのラストオーダーが求められる。映画や演劇を見た後のとりとめのない話が中断される。楽しい文化的時間がとぎれてしまう。

批判するわけではない。朝、電車に乗って周りを見るとスマホに向かい、顔を上げない乗客の割合は7割を超える。スポーツ新聞をひろげて読む客、文庫本を読む客。ただ車窓を見ている人はいない。今、時間があると意識するのは、どんなときだろう。自然と向き合い、眺めるだけの時間。心を同じくする人とのとりとめのない会話も最近は消えていった。スマホやパソコンが劇場や、図書館や美術館、デパート、ライブハウスに変わり、小さな窓から覗くように世界を見る。それがWINDOWかと納得する。

デヴィッド・ボウイに「TIME」という曲があった。沢田研二には「時の過ぎゆくままに」という歌があった。もちろんビートルズには「イエスタディ」がある。60年代から70年代の頃には時が時々とまっているようにさえ感じた。そのころの話である。夜、ブロードウェイのミュージカルを見に行く。ニューヨークは今ノスタルジーのブームだった。ブロードウェイではコール・ポーターの「Anything Goes」など古典的ミュージカルがヒットしている。70歳を超える夫婦が、ヒロインの歌唱に合わせて口ずさんでいた。

1970年代のテレビマンユニオンの入社試験。英語の試験に「イエスタディ」を自由に翻訳せよと私が出題したことがある。Yesterdayのことをどう訳すか、それがその人の個性だろうとおもった。私ならきっとYesterdayを「天使の風」とでも訳していただろう。Yesterday はビートルズには珍しく、弦楽四重奏をバックに時間の歌詞が流れる曲である。それは大天使の羽音のようだった。私たちもいろいろな会話中にふとみんなの会話が途切れることがある。フランスではその沈黙の瞬間を〜天使が飛んだ〜と表現すると聞いたことがある。天使の羽音こそ飛び切り優雅な時間だ。

デヴィッド・ボウイの「TIME」は、私が勝手に解釈しても良いと考えれば、それは「時間という奴が袖(Wings)で私を待ちわびている。話すといえばたわいのないことばかり」。というような感じで始まったと覚えている。後はとてもここではご紹介できない過激な歌詞だった。だが最後の一声は感動的に高いキーで歌われる。天使が袖(Wings)から飛び立つ感じである。「Yes Time 〜 そう 時間さ。~!」。

帰国の飛行機の中で、また時差を調整する。日付変更線という見えない時を越える。ふと近頃時報というものを聞かなくなったと思った。デジタル時代はきっと一人ひとりの時間がちがうのだろう。それならば、人はほんとうは、一人ひとりの個別の時間を与えられていると考えるべきかもしれない。デジタルの時間、それは一人ひとりの相対性理論。そんなことを思いながら羽田に着くと、得をしていた時差による時間は夢と消え、あっという間に翌日の現実的な日本の朝に連れ戻されていた。時計の針を一挙に進める。時の流れはなんと速いことか。時計の針もなくなり、振り子が左右に動く柱時計も消えつつある。文字だけで表示される時刻、それならば心の時間にはデジタルとアナログには時差があるというアインシュタイン以来の新相対性理論は生まれないだろうか?

(2021年から2011年を見ると、コロナの存在しない時がどんなに自由奔放な世界であったか、とてもなつかしく思えます。)
(重延 浩)