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海の色って何色? 不確実性の時代

<2011年11月30日 記>

海の色はふしぎな変化をする。その色を「青」と言い切ることはできない。宮城県七ヶ浜のその日の海の色は、明るかった。陽光の反射も含めて、茫洋とした波が緩やかに揺れている。何色とは言い切れない、そのことをあの20世紀を代表するオーストリアの哲学者ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインはこう言っている。私たちの見る赤、青、黄、緑、白などの色は見かけほど確固としたものではない。「純粋な色」、「単純な色」というものは存在しない。「単純な色そのものは決してアプリオリには明確なものではない」「純粋な色などという概念はもともと存在しない」。人は正常な生活方式と言う基盤のうえで物事を判断しているが、それ自体は無根拠で、我々は確実性の内側に生きているだけである、と考える。では今見ているものはいったい何なのだろうか。不確実なものの上で、確実性を追いかける。それが人の現実である。ウィトゲンシュタインの予言するように、そんな不確実性の時代に21世紀の意識は向かう。 

震災にあった七ヶ浜町は2011年3月11日、東日本大震災の津波に埋没した。人口2万人ほどの町に100人あまりの死者が出た。親を慮り、家に戻った一人の子供が命を失った。仙台市の東に位置し、北は松島、西に塩釜がある。明治9年、湊浜、松ヶ浜、菖蒲田浜、花渕浜、吉田浜、代ヶ崎浜、東宮浜の七つの浜が統合し、七ヶ浜になった。温暖な気候で、縄文早期の遺跡が残り、「日本書紀」にも竹の水門として、記録に残ると言う、その歴史的な町を一望したのは、震災後半年ほど経った夏のことだった。花渕浜の丘の上に建つコンサート、演劇、舞踊のための国際村ホールからである。国際村ホールは災害後しばらく町の避難所になった。中に577席のホールがあるが、ステージに向かうと、係員が舞台正面の奥の幕を上げてくれた。驚いたことに、背景がすべてガラスを通した町の景色になる。そこから森と町並み、そして海が大きく広がる。海は何事も無かったように、奥に満ち満ちている。その海は震災を忘れる残酷さを持っている。このホールで音楽を奏でたい。そんな思いがふと生まれる。2012年3月24日、それが実現する。それにしても、あの明るくて残酷な海の色は一体何色なのだろう。 

被災の残照は想像を超える、すでに被災直後の姿は残していなかったが、丘から降りる途中に積み上げられる瓦礫は、それを容易に消し去ることができる規模ではない。電信柱はあるものは左に、あるものは右に曲がる。激流が気ままな渦を作り、かき混ぜるように町の中を巡ったのだろう。残った家屋は、まるで刃物で乱暴にえぐったような傷跡を残している。 

七ヶ浜町の菖蒲田浜は明治21年に東北地方で初めての海水浴場を開いた。イギリス人の医師が「潮湯治」と言って、患者を海に浸らせたのが始まりと言われる。気候は温暖で、高山地区には外国人専用の避暑地があった。明治23年、アメリカから西洋野菜の種子を買い、ズッキーニ、ビーツ、セロリ、パセリ、ラズベリーなどが栽培された。七ヶ浜国際村にはアメリカの歴史館「プリマスハウス」があり、外国人避暑地の歴史も紹介している。プリマスとはあのメイフラワー号が到着した町で、七ヶ浜町はプリマスと姉妹都市であることが分かる。いままで知ることも無かった小さな町に、永く奥深い歴史が見える。その歴史を津波は抉っていった。 

私はようやく七ヶ浜の海の色を、長崎盛輝著「日本の伝統色」から見つける。「鶸萌黄(ひわもえぎ)色」だった。鶸色と萌黄色の中間で黄味の強い萌黄色である。鶸色とは鶸の羽根の色で黄色が緑色に移っていくような喩えようのない色で、冴えた黄緑と言う表現もある。江戸中期の染色に広く使われた、藍色を抑えた黄緑である。こうした日本の繊細な色彩感覚は、もしかしたら西欧の合理的な論理を超えているかもしれない。鶸萌黄という表現が美しい。今は不確実性の時代だが、日本の不確実なこの感覚を信じようとも思う。ウィトゲンシュタインの著作「確実性の問題」を片手に持ち、日本酒「浦霞」の不確実だが淡い透明感のある銘酒を楽しむ。浦霞の仕込み水は七ヶ浜町東宮浜地区鶴ヶ湊の花渕屋の庭先から湧き出た東宮水である。不確実はおいしい。

七ヶ浜町は2021年2月13日の福島沖地震でまた震度5強の地震に揺れた。地震も不確実性の恐怖である。コロナもまた不確実性の脅威である。

(重延 浩)

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