column

言葉はたえず変化し、揺れている

<2014年5月31日>

広辞苑の新しい第六版総革製机上版を贈り物として頂いた。2冊に分冊されたが、それでも手に持つには重すぎて、膝の上にそっとおろして表紙を開く。印刷された紙の香りが匂う。パソコンやスマホで言葉の意味を引く今の世代にはこんな厚くて重い書物を置く場所の想像もつかないだろうが、この重さが好きな世代にとっては、貴重な知識の心地よい重みである。

最初に買った広辞苑第一版を私は今でも家で使っている。私の蔵書の中で飽きることのない最も大切な書物である。表紙の黒いカバーは縁がぼろぼろになった。それは昭和三十九年一月十五日第十二刷として発行されたもので、定価は2300円。私が22歳の時に購入した。TBSに入社した年のことである。2300円は当時の月給の10分の1だから大変な出費だった。結婚直後の八畳一間の住まいで、どこに置くかを憂いた。みかんを一箱ごと買い、そのみかん箱を机にしていた時代だった。箱の上で広辞苑を広げれば、スペースはそれだけで一杯になった。広辞苑はそんな意味のある存在だった。編者は新村出。その後記は実に感動的である。「昭和十年の初頭以来、粒々の辛苦を積んで完成を急ぎつつあった改訂辞苑の原稿も組版も、二十年四月二十九日の戦火に跡形もなく焼け失せ、茫然たる編者の手許にはただ一束の校正刷のみが残された。しかも戦火に続く敗戦と戦後の混乱とは、如何に辞典に妄執を抱く編者を以てしても、直ちに復興を企図し得べき底のものではなかった。焦土の余熱は、容易に冷ゆべくもなかったのである」。戦後は印刷する紙も鉛もなかったから、10年を経て、昭和三十年五月二十五日にようやく第一版第一刷が出版された。装幀は洋画家安井曾太郎である。

新しい広辞苑第六版の序で、堀井令以知氏は「言葉はたえず変化し、揺れている」と書く。たしかに文化は時代と共に変わる。今、新世代がものを見て感動すると「かわいい」と言う。広辞苑を開き「かわいい」という言葉を引いてみる。いたわしい、ふびんだ、かわいそうだ、の意味が先行する。これでは「かわいい」と相手に言うと残酷なことになる。その次に来る意味が「あいらしい」である。「かわいい」を乱発する新時代は、表現力に乏しいとつい思ってしまうが、今、日本の「かわいい文化」は世界の新世代を楽しませている。「かわいい、はかつての意味を超えて、若い世代ではもっと広がりのある素敵な表現になっているんですよ」と糸井重里さんが肯定的に語っていたのを思い出す。「その流動の傾向を後世に示していくのも辞書の使命である」と堀井氏は広辞苑の序に結んでいる。

もうひとつ気になる言葉があって、広辞苑を開く。「嘘」という言葉である。「うそ」は事実でないこと、虚構の言、いつわり、そらごと、とある。最近、この事実ではないことが話題になる。佐村河内守会見、小保方晴子と理研の会見、片山祐輔被告のネット犯罪、ビットコインの虚構のような経済を見ると、何が事実で、何が事実でないかが不明確な時代になった。では「事実ではないこと」の「事実」とはなんだろうか。広辞苑の「事実」という言葉の解釈は精緻を極めている。①事の真実、②本来、神によってなされたことを意味し、時間・空間内に見出される実在的な出来事、または存在。実在的なものであるから幻想・虚構・可能性と対立し、すでに在るものとして当為的なものと対立し、個体的・経験的なものであるから論理的必然性はなく、その反対を考えても矛盾しない、とある。面白い解釈である。とすれば「事実ではない嘘も矛盾しない」というふしぎなことになるのだろうか。人間の奥の深さを知らされる広辞苑の哲学的至言といってもよい。

最後にちょっと悪戯心で若い世代の慣用語「マジ!」を広辞苑で引いてみる。「マジ」は否定の推量を意味し、奈良時代には「ましじ」と言われていたと教えてくれる。そして意外にも平安時代にはそれが「まじ」という言葉になったという。「まじ」は実は古典的な用語だった。新世代は平安時代に通じていたのである。紫式部や和泉式部が宮廷で、「ましじ!」などと叫んで、『源氏物語』や『和泉式部日記』を書いていたと想像するのは楽しい。明日、会議で「まじ!」などと突然叫んでみるのも新世代に負けない平安宮廷風の雅びな表現なのかもしれない。言葉はもっと遊べる。時代は急速に変化しているのだから…。そして広辞苑が味方しているのだから…。

(重延 浩)