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桜は「時の流れ」の花

<2014年11月30日 記>

時が経つのが速いという感覚は経年者のものと言われたが、今は若い世代もその速さに同感する。「この前桜が咲いていたばかりだよね」という実感が秋風の寒さの時季に語られる。

桜はいつも時間のことを想わせる。一斉に咲いて、一斉に散る。それを当然の自然現象と思う。だがなぜあらゆる桜は同じ時に咲きはじめ、同じ時に散り始めるのか。その時を桜がどうカウントダウンしあっているのかは知らない。自然は静かに奇跡を実現している。

『さくらさくら』という歌がある。

さくら さくら 

やよいの空は 

見わたす限り 

かすみか雲か 

匂いぞ出ずる 

いざや いざや 

見にゆかん

この歌は江戸時代末に子供のための箏曲として生まれ、その後教科書で取り上げられて国民の愛唱歌になった。それを11月11日、北海道江別市のえぼあホールで聞いた。ソプラノ歌手の中嶋彰子とピアニストのニルス・ムースとのデュオコンサートだった。外は雪を待ちかまえるような寒さだった。その冷気の中での『さくらさくら』に心魅かれた。桜がしだいに狂うように乱れて散っていく歌だった。この狂おしい編曲をした貴志康一という音楽家を知る人は少ない。

その夜インターネットで貴志康一を検索する。貴志は1909年に大阪で生まれた。父方の祖父貴志彌右衛門は繊維問屋の豪商で、松花堂弁当の考案者でもある。生家の財力もあり高校2年生でジュネーヴ音楽院に留学、ベルリンでその才能を発揮した。1929年は大恐慌の年だが、その年1710年製のストラディヴァリウスを日本人としてはじめて購入している。フルトヴェングラーに指揮を、ヒンデミットに作曲を学んだという。1934年には編曲を含む自作の作品19曲を貴志自身が指揮してベルリン・フィルハーモニーの演奏で録音している。交響組曲に加え『赤いかんざし』や『花売娘』、そして『さくらさくら』の編曲も入る。貴志のかもしだすダンディーな雰囲気と華麗な指揮法は当時の退廃的なベルリンで人気を博した。帰国後の1936年2月20日には新交響楽団(現NHK交響楽団)の定期演奏会で第九を指揮している。その華麗な指揮振りには賛否両論があったとも言われる。その日は2・26事件の6日前だった。2・26の当日、貴志は積もる雪の中赤坂の山王ホテルに戻るが、ホテルはすでに叛乱軍に占拠されていた。時代は急旋回する。

2・26事件のその日、日本にやってきた一人のドイツ人がいた。映画監督アーノルド・ファンクだった。山岳映画で成功を収めたが宣伝相ゲッベルスとは対立していたという。彼は日独合作映画『新しき土』を製作・監督するため日本にやってきた。日独の国威発揚も求められての映画製作だった。日本側の監督は伊丹万作、主演は原節子だった。来日の日、東京に雪が降った。日独が急接近していった時代である。陸軍が時代を制覇し、ワイマール共和制や大正デモクラシーの夢が消えていった。

ベルリンでアーノルド・ファンクが監督した『聖山』によりダンサーから女優に転身したのがレニ・リーフェンシュタールである。レニの美貌と才能をヒトラーやゲッベルスが好み、レニはナチの支援の下で1936年の『オリンピア(民族の祭典・美の祭典)』を監督した。彼女は美しき人間像を記録する美学に熱中した。映画はベネツィア映画祭最高賞を受賞している。だが戦後レニはナチ協力者として訴追される。

私はふと、レニ・リーフェンシュタールはベルリンで活躍していた貴志康一のことを知っていただろうかと思った。貴志康一はオリンピックの時は東京に帰り、オリンピック蹴球(サッカー)選手送別音楽会で『第九』を指揮している。指揮者貴志のダンディズムはレニの美学に近いように私には思える。だからレニには貴志康一の『さくらさくら』を一度聞かせてみたかった、とふと思った。これは決して非現実的な話ではない。私は『民族の祭典』の回想を日本で語ってもらうためにレニを日本に招いた。レニはヒトラー政権と当時の映画製作の相克を真摯に私に語った。前畑秀子や村社講平らと再会したあと、美学を愛するレニが急に歌舞伎を見たいと言うので歌舞伎座に連れて行った。舞台では桜が満開で煌々と光が満ちわたっていた。彼女は「きれいな色」とつぶやいたのを私は隣席で聞き逃さなかった。だから『さくらさくら』でレニを思い出すことになる。時の流れの速い人生で人はそんな劇的な歴史的時間にどのくらい出逢えるだろうか。時は神から与えられた美しく狂おしい恩恵である。
(重延 浩)