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ジャンヌ・モローが残した別れの言葉

<2017年10月31日 記>

パリはテロを忘れて歩くことが出来ない街になってしまった。私がはじめてパリに行ったのは1979年のことだった。私のパリは1950年、60年代の映画によって空想されていた。「モンパルナスの灯」、「男と女」、「大人は判ってくれない」、「死刑台のエレベーター」、「恋人たち」、「突然炎のごとく」。新しい風が吹いていた。C・シャブロル監督の「いとこ同志」は高校生が見てはいけない映画だったが私は隠れて映画館に入り込んだ。それから20年後、私はフランス映画のヒロインである、ジャンヌ・モローとプラザ・アテネのバーでお酒を飲んでいた。まるで夢の中に入り込んだ迷子のようなものである。

 きっかけは彼女の監督第2作「リュミエール」(1976)だった。リュミエールは光という意味である。1981年、私は3時間のテレビドキュメンタリー「印象派」(TBS)を演出することになった。そのコメンテーターを誰にするか思い巡らしていたとき、「リュミエール(光)」という言葉に誘われるように頭に浮かんだのがジャンヌ・モローだった。

 ジャンヌ・モローに私の希いをそのまま手紙に書き、スタッフに美しいフランス語に翻訳してもらい投函した。彼女から思いがけない自筆の返事が返ってきた。そして、彼女が出演していた舞台に招かれたのである。パリに向かう。舞台に贈る花をどうするか、パリの花屋をいくつも巡り、選んだのがベトナムの小さなピンク色の花を持つ躑躅だった。

 モンマルトルのヴァリエテ劇場での芝居が終わり、楽屋を訪れるとジャンヌが飛び込んできた。そしていきなりその躑躅を指差し、両手を広げて素晴らしい花をありがとうと叫んだ。それは単なる礼ではなく彼女の感動をこめた表現だった。そしてプラザ・アテネのバーに招かれた。バーで私が企画を語り、ジャンヌは黙って聞いていた。それから出演の諾否を恐る恐る聞いた私に、彼女はひとことでYESと答えた。「あの花を選ぶ心があるならきっと素晴らしい作品が生まれるわ」。

 1981年、パリ郊外にあるモネのジヴェルニーの庭から撮影が始まった。ジャンヌは四角い小さな紙に自分が話す言葉を書き、いつもワンテイクで語り切った。私たちがその映像をモニターでチェックしても決して見ようとしなかった。「私はあなたたちを信じているの。みんなが準備している様子で、すべてを任せても良いと思ってるわ」とあの独特の微笑みを見せる。それからの撮影に彼女はまるでスタッフのように参加した。待ち時間ができると、近くの店に買い物に行き、サンドイッチを作り、それを切り分け、セーヌ河の河畔で一緒に昼食を楽しんだ。撮影中、彼女が強い興味を示したモネの作品は、妻の死を描いた一枚の絵だった。ヴェトゥイユに暮していたモネ夫妻。しかし妻カミーユは子宮癌を患い死の床につく。その姿を、光の変化として、色の変容として、一枚の印象派の作品に描ききる。その絵をジャンヌはじっと見つめていた。そして家の傍にあるカミーユの墓にそっと小さな野生の花を供えた。無言。それがジャンヌの哀悼のコメントだった。

 番組が完成し、私は彼女を日本に招いた。試写会を40歳になった私の誕生日に設定した。彼女は私のこの遊び心を笑って受けとめた。それから彼女との仕事は途絶えることがなかった。彼女はしばらく映画から離れ、「ドガとロートレック」、「セザンヌとゴーギャン」、「モネとロートレック」と私の印象派シリーズに毎年出演した。さらにNHKスペシャルの「ガラのダリ」、ハイビジョンでの「フェルメール」、そしてBS―i(現BS TBS)での「子供が見たルーヴル美術館」。この作品でニューヨークフェスティバル  アートドキュメンタリー部門金賞および、シカゴ国際テレビフェスティバルでも金賞を受賞した。彼女と私たちの作品はフランスの出版社RAMSEYから出されたジャンヌの伝記に大きく記録された。その伝記の最後のページはジヴェルニーの庭で写されたあの時の彼女の写真だった。

 映画女優ジャンヌ・モローはカンヌ映画祭の華だった。カンヌでの昼食で私は俳優ジャン=クロード・ブリアリに紹介された。「あ、『いとこ同志』にでていたブリアリだ!」と一瞬高校時代の夢の世界に戻る。

 ジャンヌに是枝裕和監督の「幻の光」を見てもらうと彼女は「谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』ね」とつぶやいた。そのことを是枝監督に伝えると「え、ぼくはあの撮影中いつも『陰翳礼賛』をポケットに入れて読んでいたんですよ」と答えた。ジャンヌの是枝映画に関する洞察力は鋭かった。

 ある夜、彼女はギャラリー・ラファイエットというデパートの前で突然車を止め、私について来るように私を誘った。「ほらクリスマスが近づくとこのウインドウの飾りがとても素敵になるの、人形たちがみんな動くのよ」と言ってガラスに額を押しつけて見入っていた。それは少女ジャンヌの姿だった。通行人が大女優のそんな子供のような姿に驚いてふりむいた。あるときは私を家に招き夕食を作ってくれた。一皿一皿食べ終わるとすぐそれを洗い、そして次の料理を出した。その姿は母親のジャンヌだった。彼女の部屋のべランダには私が贈ったベトナムの小さな花が咲いていた。

 ジャンヌから1月20日の誕生日の直前にメールが送られてきた。「ねえ、私いくつになると思っているの。87歳よ。私のこと、忘れてないわよね」。ジャンヌらしい可愛いメールだった。それからの彼女のメールは秘書からの伝言になっていった。私のメールを読んで喜んでいたという伝言だけが一年以上続いた。

 2017年7月31日、ジャンヌは世を去った。あの魅力的な低音で好きなシャンソンを明るく歌いながら去っていったに違いない。私のチーム全員からジャンヌに深く哀悼の礼を捧げる。

 パリにいくたびに、私はモンマルトルの墓に花を置き、墓石を撫でる。彼女の言葉をふと思い出す。「死は宇宙のすべての生命に起きる自然な事故なのよ」。

(重延 浩)