column

悪魔メフィスに教えられること

<2018年1月31日 記>

原宿のいつものレストランのいつもの席には黄色い銀杏の葉が風に吹かれて落ちてくる。「クリスマスなのに…」と店長に尋ねると、「そうなんです。最近神宮の落葉とここの落葉の時季がずれるようになりました」とその季節差に気づいていた。暖かい日差しかと思えば冷たい雨に急変する東京の天候不順は地球の軸が変動しているからかもとテレビで聞いて、ふと信じてしまう。そういえば帽子を毎日かぶって外に出る私も2、3年前から強い風に帽子を押さえて歩く日が多くなった。 

地球軸の変化だけでなく、もう一つ大きな変化をしているのが「時間」だと私は感じている。それを私は「時間軸の変化」と言っている。誰に聞いても「去年は速かった」という。時間の過ぎるのが、早いというより速いという感じである。齢を重ねたせいかと思ったが若い世代からも同じ感想を聞く。時間を巻き戻しできる仕掛けを発明してくれる天才はいないものだろうか。「時間とはなんだろう」という思いにときどきとらわれる。アインシュタインの相対性理論を学び、時間の進行は絶対的なものではないと知った時は無性にうれしかった。宇宙で長生きできる。 

私は1000冊ほどが並ぶ本棚を毎年年末に整理する。100冊を目標に本を入れ替える。そこに新しい風を漂わせる。外される本は過去との別離になる。あらたに並べられた本は現在の私の好奇心そのものである。あの本のとなりはこの本でなければならないと迷うこだわりを遊ぶ。隣の本と喧嘩しないような位置に並べる。できあがった本棚を自分の席から遠目に眺めると、それぞれの本から強いメッセージの風を受ける。本の表紙たちがしゃべりかけてくるような空気を楽しむ。手を伸ばせばどの時代にでも飛翔できる。プライベートなタイムマシンの操縦席に坐っているような気がする。 

整理の時、本棚の前でゲーテの『ファウスト』の上下本を手にして迷った。あまりにも分厚く、これを外せば新刊4冊を棚に飾れる。しかし書籍の原点ともいえるこの本を外せるだろうか。久しぶりにページをめくる。悪魔メフィストフェレスはファウスト博士にこんなことを言っていた。「光陰は矢の如し。だから気をつけろ。時間割をつくると良い。何であれ簡略化して、分類していくがいい。そのうちおいおいわかってくるさ」。だが人生そんなに簡略化できるものか、とメフィストに反抗したくなる。18世紀の悪魔の言葉に誘われてはいけない、と思いながらもファウストのように迷う。ふと、あのメフィストの予言はいまのデジタル時代への予言ではないかとも思いはじめる。悪魔はいつも逆説で人をまどわすが、ときには意外な真実を言うこともある。

 1段下の棚に『佐藤可士和の超整理術』という本がある。その本を開くとあのメフィストの予言「簡略化」と「分類」につながるこんな言葉が見つかる。「整理術は仕事も生活も劇的に変える」、「現代社会は非常に複雑な状況」、「問題の本質を見据えると、新しい視点も見えてくる」、「本質を捉えなければ、いい結果は生みだせない」。18世紀と21世紀の雑談が本棚から聞こえて来る。メフィストは現代の社会変化を見抜いていたのかもしれない。あわてて『ファウスト』をまたもとの棚に戻す。この2冊の本の交流は私に新しいインスピレーションを与えてくれる。

私のタイムマシンはいきなり文久3年のパリに飛ぶ。1864年パリでゲーテ原作、グノー作曲のオペラ『ファウスト』に招かれたのは第二次遣欧使節団の正使としてナポレオン3世に謁見した28歳の池田筑後守長発だった。この話は私がプロデュースする「世界ふしぎ発見!」のエピソードとして紹介した。池田正使はその歌劇に感動し、特に悪魔メフィストに興味を引かれ、終演後メフィストを演じた俳優に紹介してもらう。その若い池田長発はパリの進化する文明に出会い、幕府に反抗し、切腹を覚悟の上で開国への道に走る約定をフランスと結ぶ。このように私の本棚で幕末とゲーテが勝手に会話する。そこに新しいインスピレーションが生まれる。こうした雑然とした状況が混然一体となっているカオスが私の本棚であり、私の社会であり、私の宇宙である。その中でなまぬるい風呂につかるような時を過ごす。それが私の愛する時間である。佐藤可士和流に言えば、そのカオスのなかの仕事をエンジョイすることが世の中を楽しく生きるということではないだろうか…。

本も今ではデータ化すれば、スペースを取らずにいくらでも保存できる。いつも目にすることはできないが、ボタン一つでその記録を取り戻すことができる。しかし、それはやはり沈黙の情報にすぎないのではないか。そのデータになってしまったアーカイブからメフィストフェレス的囁きが聞こえてくるだろうか。やはり目に見える背表紙の発信からの方が心を刺激するのではないか。年末、本棚の整理のあとは抽斗を整える。送られてきた書信を整理する。心ある手紙はいつまでも捨てられない。便箋を開いて手書きの文字に接すると、そこに書かれた世界がすべて甦る。メールの思い出になる言葉はファイルして保存するが、そのプリントでは暖かさを感じない。書いた人の手が触れた便箋とは感触がちがう。アナログを盲目的に礼讃しているのではないが、そこに生きていた時間を感じとれることが大切と新年に想う。メフィストはこんな私のことを「俺の言うことがわかる男だ」と思ってくれるだろうか。

(重延 浩)