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運命は人生の踊り場である

<2018年10月31日 記>

私は戦後南樺太から父の故郷札幌に引き揚げ、小学校に入学した。中央創成小学校という時計台に面した小学校だった。その時計台の針で授業の終わりを心待ちにしていた。町の真ん中の大通り4丁目で子供時代を過ごした。札幌の雪まつりは私の家の前で始まった。

 小学3年生のとき小樽への修学旅行があった。私の母は同級生の女の子をその子の母親から預かった。旅行が終わり、その帰り道、母はその女の子と私を連れ、買い物があったのか、老舗の丸井今井百貨店に行き、階段の踊り場に二人を放置していなくなった。二人は踊り場のベンチで左右に離れ離れに座り、一言も口をきかなかった。時代は昭和である。口もきけない沈黙のデイトとも言える想い出が記憶に残る。

 小樽は瀟洒な港町だった。私が憧れたスター石原裕次郎が戦争の迫る3歳から9歳まで、父親の転勤で暮らしていた。小樽駅には帰郷した裕次郎がホームで汽車を待つ24番の柱が残されている。

夏休みに毎年、小樽にある祝津という入江に行き、泳ぎを学んだ。そこは海面下が石だらけで、足が底につくのが痛くて必死に浮かぶ方法を考えた。あがくと体は沈んでしまう。逆に力を抜くと体が自然に浮かぶこつがわかったとき初めて「発想の転換」という価値を知った。それは今でも生きている着想である。

 丘の上には灯台があり、そして鰊御殿があった。二階に梯子で登り、みんなで雑魚寝した。もう鰊は来なくなっていたが、御殿の持主は鰊が重なり合って押し寄せる海の話をしてくれた。漁船で鰊に近寄り、群の中に旗を刺すと、旗は倒れることなく鰊の群と共に運ばれていったと言う。

今年小樽を仕事で訪れる。小樽で1910年代にロシア語を教えていたひとりのロシア人を想うコンサートが開かれた。現在の小樽商科大学で教鞭をとっていた言語学・民俗学者のニコライ・ネフスキーの悲愴な人生を物語るコンサートである。ショスタコーヴィチのヴィオラソナタをヴィオリストの大島亮さんとピアニストの草冬香さんが演奏するという。それを映像で記録すべく小樽に飛んだ。

 今は忙しさを旅に結びつけることで救いを感じることが多い。札幌駅から懐かしい函館本線に乗る。北海道の地名にはなぜか情緒がある。通り過ぎる駅の看板を懐かしくみつめる。札幌から小樽への函館本線。優しい駅名と出逢う。琴似、桑園、発寒、手稲、稲穂、星置、ほしみ、銭函。銭函の駅には鰊漁で繁栄した時代を誇るような幅58センチの銭の箱が昔のままにホームに置かれている。温泉のある朝里。それから小樽市へ。かつては石炭を運ぶ港として栄え、その後も貿易港として栄えている。町には坂道も多く、夏、冬、それぞれの姿を見せる港町である。冬の雪道は美しい。夜月光がさすと冷たく光る。雪明かりである。

ネフスキーは言語学、民俗学では折口信夫、柳田國男、金田一京助とならぶ評価を受けていたロシア人である。しかし今はその名を知る日本人は少ない。北海道でアイヌ語を学び、沖縄の宮古島でその地の方言に接し、昔からの民謡を記録し、かけがえのない多くの資料を残した。

 沖縄の宮古島を訪れると彼が現地でいつも歩いて方言を集めた通りがあり、今もネフスキー通りと呼ばれている。その奥にネフスキーの記念碑が立つ。おそらくその石碑の意味を知る観光客はほとんどいないだろう。

 小樽で萬谷イソという助手を務めた女性と出会い、結婚し、一児を持つ。イソは積丹の鰊御殿を持つ資産家の娘だった。そのネフスキーのイメージを追う小樽のマリンホールでのコンサートだった。ネフスキーの縁で当代の最高の宮古島の歌い手與那嶺美和さんが古くからの宮古島の古謡をその体から響かせるように歌う。

 ネフスキーと旧レニングラードで同時代を過ごした作曲家ショスタコーヴィチのヴィオラソナタも聞く。小樽、宮古島、サンクトペテルブルクの三都市がネフスキーによって結ばれる。だがその音色に漂う悲壮感は、ネフスキーが権力者スターリンの粛清により、無実のスパイ容疑のまま、裁判もなく妻イソとともに銃殺された歴史の響きに聞こえてくる。政治に学問は無縁というネフスキーの真摯な姿勢はたった1発の銃声で消えていった。

小樽マリンホールには妻イソさんの甥が二人来ていて、じっとその音色に聞き入っていた。イソさんの末の妹の息子さんという。

 戦後ネフスキーはスパイ嫌疑から名誉を回復し、言語学の成果が高く評価され、ソ連のレーニン賞を受賞した。娘のエレーナさんは生き残り、1989年、宮古島につくられたネフスキー記念碑の序幕に立ち会った。

私は小樽の公演を終わり、早々と店じまいをする小樽の盛り場で、まだ明かりの灯る居酒屋に飛び込み、小樽の海の料理を味わう。旅の中での短い自分の時間。過去と自分の一瞬の交錯。それが一瞬でも人生のかけがえのない時間と言えるものを想い出にする。想い出を積み重ねるとそれはその人だけの人生になる。

 翌朝5時にホテルを出る。今はその姿を失った丸井今井百貨店跡の前を通り過ぎ、小樽駅から千歳空港に向かい東京へ。羽田から仕事場に直行する。喧騒の東京でのいつものあわただしい時間に戻る。夜疲れ果てて自宅へ。荷物には空港で慌てて買った冷凍の鰊漬けを忍ばせている。下北沢の家の扉を開けると何故か小樽の丸井今井デパートの踊り場で離れ離れに座っていた女の子が私を出迎える。運命はまさに人生の踊り場である。

(重延 浩)