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優雅で自由なソーシャルディスタンス

<2021年11月1日 記>

今まで聞いたこともなかった「ソーシャルディスタンス」という言葉をみんなが覚えた。「人と人の間を広く」というコロナ対策である。あるとき、ふと私は思った。人と人との間と書くと、それは「人間」となる。では人間の「間」とは何か? その「間」は「空間」であり、「時間」でもあり、そして「人間」という人と人との距離を超えた、社会性に基づく存在のあり方全体を示すものであると。

 そして驚く説明に出逢った。「間」という字は「閒」という字から始まったという。確かに門がまえの中に入っている字は「日」ではなく、「月」である。そんな字があったかと調べてみると昭和初期に活躍した作家の内田百閒さんの筆名が確かに「閒」である。門の扉の中央の隙間からさす月の光を意味したという。単に距離を意味するディスタンスという二次元的英語表現を超える日本らしい優雅な表現だった。距離で厳密に計測されるのではなく、微妙な解釈、曖昧な中間的感覚、イエスとノーの答えの中間を意味する表情や言葉が許される日本の寛容な「閒」であると…。 

京都の門跡尼寺に伝えられた中秋の名月を迎える儀式に私が立ち会える夜があった。雲間から現れた中秋の名月を見る。中世の宮廷の伝えは、新鮮な茄子を左手にとり、そこに丸箸を差し込み、穴をあけ、それを手にもって月にかざし、その穴から月を見る。それが最も美しい中秋の名月の見方であるとご門跡様から教えられた。ご門跡様の後に私もその穴から月を観賞させていただいた。その穴の「閒」からのぞき見た月の美しかったことをいつまでも忘れられない。月は茄子の白い実の中で反射し、より強く真っ白に光り輝やいていた。それはまさに茄子の円い隙間から見た「閒」の幸せを感じさせてくれた。 

芸術や娯楽にも「閒」がある。音楽のリズムの「閒」、音符が言葉に代わってその細やかなタイミングを表示する。間を示す休符にもいろいろな微妙な差を示す表示がある。オーケストラはその記号の「閒」を指揮者の指揮棒、コンサートマスターのボーイングで見事に協奏する。だが独奏の時はその「閒」を個的に操る独創の「閒」となる。その自由な「閒」に聴衆は共感する。

 絵画の「閒」は空間を何で描くか、画面の構成、遠近法などのリアリズム、それを全否定した表現主義、抽象主義がそれぞれの自由な表現でキャンバスの空間を埋める。日本画の伝統的絵画にはやはり西洋絵画にはあまり見られない靄や霧の自然表現が見られる。だがその一方で浮世絵は西欧の様式に衝撃を与えた。その構成の斬新さ、空間処理の奔放さ。それは西欧の手法を変革させた。日本人の自由な「閒」の感覚はもっと世界に愛されてよい日本人の特質ではないだろうか。 

能の観世寿夫は言う。「能はやっぱり間のいい人でなければだめでしょうね、教えなくてもできる人かそうではないかが能を演じる人の違いですよ」。娯楽にも微妙な「閒」が求められるのは古今の芸人のだれもが知っている。それは現代のお笑い芸人も先天的に知っている「間」である。古今亭志ん生師匠は高座で突然眠ったように言葉が止まってしまうことがあった。しばらくすると思い出したようにまた噺が始まる。客もその間を黙って待ち、その「閒」を楽しむようになる。ボサノヴァを創生したジョアン・ジルベルトも舞台で眠った。2003年の日本公演、気ままなジルベルトはその日来るか来ないか、どのくらい遅刻するかさえわからない自由なミュージシャンだった。だれもそのことを否定せず、むしろ共感する余裕を持っていた。それも「閒」の感覚である。そんな聴衆に想定されていたのは、彼がギターを持ったまま途中で何分眠ってしまうかである。みんなが予感していた通り、突然ギターの指が止まるとその日は15分に及ぶ睡眠だった。その「間」をずっと待ち受けるのも、聴衆のコンサートの楽しみだったのだ。それこそがお互いを理解する人間の「間」だったと私は思う。「閒」は人の心とそのタイミングがあえば心地よい自由な時間と空間になる。 

今は予期しない自由な時間の閉鎖となった。世界に旅することで思いがけない出逢いがうまれた自由な国イタリアの町々。毎年繰り返し訪れたイタリアの町の人々の顔が浮かぶ。小さな書店の厳格な眼鏡のおじいさん、毎日カフェで私のオーダーを受けてくれたえくぼのウエイトレス、町角の木陰の公園で編み物をしていた小さい眼鏡のおばあさん、ごく普通にそこにいる人たちがいつもそこにいてくれることが私の心を和やかにしてくれる旅だった。そんな心の風景を失ってはならない。ローマ、ヴェニス、フィレンツェ、ナポリ、いやそれだけではない。小さな町トリエステの坂道、ソレントの崖に立つホテル、アッシジの旧市街、アマルフィの皮つきリモンチェッロ…

 今は次第に海外の関係も薄れていく。コロナという思いがけない要因が、実は怖いのはあらゆる自由の「閒」を遮断することである。

(重延 浩)