column

ボルサリーノをかぶる空気が待ち遠しい

<2022年2月15日 記>

私はコロナ蔓延前、外ではいつも帽子をかぶっていた。イタリアに行くたびにボルサリーノの新しい帽子を買った。私の出費は帽子と靴だけと家族から笑われたことがある。イタリア北部出身のボルサリーノ家から生まれた帽子。私は柔らかいフェルトハットの形を好んだ。ウサギの毛で作ったしなやかな柔らかさが心を温めてくれた。1940年代にイギリスでヒットした。道を歩いていた帽子姿の紳士が後ろから頭部をステッキで殴られ、真ん中がへこんだ中折れ帽とも言われる。イギリスの好むブラックユーモアかもしれないが…。私はコロナが流行ってからは帽子を被っていない。マスクに帽子では息苦しくなる。コロナが私の心を後ろからへこませてしまった。今や私の帽子は部屋の片隅に置かれ断捨離の対象にされそうである。コロナはそんな小さなぜいたくを無惨に封鎖した。

さらに封鎖されているのは海外の空気である。海外の情報は、今はネット上で知ることができる。言語がわからなくても、すぐ翻訳してくれる。時間に追われる私にとって救われる便利な道具が次々と生まれる。だが、「それでいいのか?」とシニカルな笑みをたたえて去っていくもう一人の自分がいる。その後ろ姿を見ながら、私は今何を失っているかを考える。

 その答えは人と人との間に漂う「空気」ではないだろうか、そう思う。コロナはその空気の漂いを侵した。コロナには彼らなりの生存の戦術が必要だったのだろう。彼らから見れば、人間こそ攻撃性のある生物的存在ではないか。ワクチンという武器をもって殺しに来る悪魔にも見える。

リモートによる会話がとても多くなった。画面上で話すだけのマスク姿の知人が増えてきた。町ですれ違っても認識できない知人だらけである。その代わりリモートの機能で、海外の友ともすぐ逢える。しかしその交流は微妙にかつての対面とは異なる。なぜか同じ空気を吸っていないという違和感である。抱き合ってハグする交流がない。人と人との想いには共に同じ空気の空間にいることで伝わる情報以上の接触が大切なのではないだろうか。恋という情感は空気があってこそ、そこに愛が生まれるのではないだろうか。情報だけの恋があるのだろうか。それがあれば新しいスタイルの小説、映画を描けるかもしれないと思う。

私はこの2年間、全く海外に旅立っていない。想像を絶する自由の封鎖である。思えば多くの時間を飛行機で過ごしてからたどりつくあの長い時間を含めた移動感が、海外という異国性をほんとうに感じる空気だったのではないだろうか。空港のざわめきの空気、街に向かうタクシーでしだいに近づいてくる異国の空気、その町でそこで出逢える親しい友との握手。非デジタルの愛。そこで生まれる本当の国際的理解。そこにこそ本当の人間的交流があるのではないだろうか。情報が先ではない。情感が先にある、だからその人からの情報には価値がある。

 私はかつて著書で「デジタルヒューマニズム」という表現を公表した。それは私の造語である。2013年の本だからもう古いかなと思ったら、いや今こそ正しいと思う至言が書かれていた。「デジタルヒューマニズムは魅惑的状況である」。

この本は今読み返して自分で言うのはおかしいがかなりの先見性に満ちていた。「テレビヒューマニズムは新しい社会、新しい知性、新しい表現を発想する新時代の人間文明論である。それは決して単純な人間讃歌ではない。歴史への現実的提案である」。「テレビジョンは人間のテレビジョンである」。社会のための活用、表現のための活用をする。それがテレビジョンから発想する「新しい人間主義」、デジタルから発想する「新しい人間主義」、つまり「デジタルヒューマニズム」である。その未来論は今思うと正しかったと思う。この発想が生まれたのは、あのアップルの創業者スティーブ・ジョブスのメディア哲学に新しい時代のヒューマニズムを感じたからである。彼のことで私が感動したのは、彼が自分の創ったアップルに復職を求められたときの彼の提案である。報酬についてこう主張した。「報酬は1ドルで…」。この彼の創造的発言こそデジタルヒューマニズムである。逆説的な固有の人間主義である。

私が最も否定する未来論は「構造」の論理だけを最初に規定して発想する未来的発想である。私のデジタルヒューマニズムは組織優先ではない。一人一人の存在を大切にするデジタルヒューマニズムである。それが人間社会に必要であるということを教えてくれたのはこのコロナの奔放な繁殖である。コロナというものの攻撃的存在と向き合ってお互いの未来論を議論しなければならないのかもしれない。私がまたボルサリーノのソフト帽をかぶることができるのはいったいいつのことだろうか。

(重延 浩)